BALENCIAGA(バレンシアガ)
公式 https://www.balenciaga.com/
「バレンシアガ」は、バスク系スペイン人のクリストバル・バレンシアガによって1914年にスペインで設立されたラグジュアリーブランド。ウェアからシューズ、バッグ、アクセサリー、香水に至るまで幅広く展開している。
エレガントで芸術性が高く、それでいてシンプルで体に密着しないゆったりとした革新的なスタイルは世界中のセレブに愛されており、日本でも高い人気を誇っている。
1970年代後半に一度倒産の危機を迎えるが、その後、復活。 1998年からグッチグループに属し、2011年にグループそのものがフランスを本拠地とする流通会社「PPR(元・Pinault-Printemps-Redoute)」によって100%子会社化されたことで、系列会社を含めて「PPRラグジュアリー・グループ」所属となった。また、2013年に「PPR」は組織改編により「ケリンググループ」へと改称。よって現在は、「ケリンググループ」の所有となっている。
歴史
1914年にクリストバル・バレンシアガが創業し、最初のオートクチュールハウスをオープン。ビスケー湾に面しフランス国境に接するスペイン・バスク州サン・セバスティアンに本店を構えた。1918年には初めてパリオートクチュール・コレクションに参加。その評判はすぐにスペイン国内に広がり、マドリード、バルセロナに立て続けにハウスをオープン。創業時はスペインに本店があったが、1937年にスペイン内戦の影響でフランス・パリ8区ジョルジュ=サンクに本店を移転し、それ以来パリを本拠地としている。
元々はオートクチュールハウスとして、オーダーメイドの1点物を取り扱うモード系ブランドだったが、ブランドイメージは時代によって移り変わっていくこととなる。
今でこそよく聞く立体裁断などは当時としては革新的な手法で、その地位を着実に築いていった。1950年代には「Christian Dior(クリスチャン・ディオール)」と肩を並べる名門に成長した。「ディオール」はプレタポルテ(既製品の服)で世界的な大成功を収めたが、その一方で「バレンシアガ」は自身の作りたい服が作れなくなるということからプレタポルテに手を出さず、オートクチュール一筋を貫いた。そのため知名度に格差がついてしまった。しかし、オートクチュールが衰退する中でも顧客に恵まれ、最後まで採算がとれていたという。バレンシアガの死後、甥が事業を引き継ぐが、ブランドのライセンスを保持しているだけの状態が続き、1970年代から80年代後半は、「バレンシアガ」にとってまさに不遇の時代だった。1970年代後半には倒産の危機もあったという。
クリストバル・バレンシアガ亡き後
1968年にクリストバル・バレンシアガはパリ、バルセロナの店舗を閉鎖して引退した。フランスで5月革命が起こり、贅沢はできなくなったと悟ったからだった。このニュースは世界に大きな衝撃を与えた。その後、1972年にバレンシアガは生まれ故郷であるスペインでその生涯を閉じた。77歳だった。事業は甥に引き継がれ、しばらくは香水ブランドのみ継続。1978年、ブランドとしての「バレンシアガ」は、フレグランス事業も含め、いくつかの企業に移譲され、ライセンスビジネスのみでブランドを稼働している状態が続いた。1987年にプレタポルテ(既製服)のブランドとして復活したが、評価は芳しくなかった。しかし、1995年にニコラ・ジェスキエールがデザイナーに就任し、高い評価を受けるようになる。それから長い年月をかけ、靴やバッグなどの小物、メンズウェアなど、商品を拡大していった。ストリートファッションのイメージへと変わったのは2015年、デムナ・ヴァザリアがデザイナーとして就任してからのことである。
※ 5月革命 – 5月危機とも呼ばれる。1968年5月にフランスのパリで行われたゼネスト(ゼネラル・ストライキ)を主体とした学生運動に端を発し、フランス全土に広がった社会変革を求める大衆運動。
復活
1995年、ニコラ・ジェスキエールがライセンスデザイナーに就任。その後、1997年にはプレタポルテ及びアクセサリー・コレクションのクリエイティブディレクターに就任。ニコラ・ジェスキエールのデビューコレクションは、衝撃的な印象を残し、新生「バレンシアガ」を大いにアピールする。ジェスキエールは「バレンシアガ」の伝統的なスタイルを継承し、ウェアだけではなく、バッグ、シューズでも好評を得た。
「バレンシアガ」は、長きに渡りモード系ブランドとして人気を博していたが、2015年にデムナ・ヴァザリアがデザイナーに就任し、ストリート要素を取り入れたことで、「バレンシアガ」は一気にストリート系ブランドへと様変わりした。これにより、ハイブランドに縁がなかった若者を取り込むことに成功している。それでも、ラグジュアリーかつ挑戦的なデザインや、ファッションに新しい試みを取り入れるという姿勢は、どの時代にも共通している。
また、1998年から「グッチグループ」に属し、2011年に「グッチグループ」が解散した後はフランスを本拠地とする流通会社「PPR」の保有ブランドとなり、2013年以降は「PPR」の組織改編により「ケリンググループ」の傘下に属している。
2020年7月、クリストバル・バレンシアガがメゾンを閉じてから52年の月日を経て、オートクチュールを再開。専門チームを作り、歴史的な地であるアベニュー・ジョルジュサンク10番地にて当時のサロンを再現したアトリエを設立した。
歴代デザイナー
- クリストバル・バレンシアガ(1914~)
- ジョセフュス・メルキオール・ティミスター(1992~)
- ニコラ・ジェスキエール(1995~)
- アレキサンダー・ワン(2012~)
- デムナ・ヴァザリア(2016~)
クリストバル・バレンシアガ
立体裁断や完璧な縫製技術によって生み出された斬新で芸術的なスタイルはファッション界に多大な影響を与えた。仕立てや刺繍、羽根飾り、コサージュなど、通常は職人が担当するオートクチュールドレスの制作手順を一から自身の手で手掛けることのできた、数少ない人物としても知られている。
そんなオートクチュールを貫いたクリストバル・バレンシアガは「クチュール界の建築家」、「クチュリエ中のクチュリエ」、「デザイナーの王様」、「クチュール界のピカソ」などと言われ、マスコミにも登場せず、組合にも加入しない孤高の人であったが、多くのデザイナーに尊敬されていた。クリスチャン・ディオールは「われわれすべての師」と仰ぎ、ココ・シャネルは「すべてを一人でこなすことのできるただ一人のクチュリエ」と称賛。
また、当時は「クリスチャン・ディオール」のようなコルセットで腰回りを絞って固定したアイテムが人気だったが、「バレンシアガ」は当時の流行から外れたゆったりとしたスタイルのアイテムを出して『コルセットからの女性の解放』と、当時かなり話題となった。
「バレンシアガ」は現代でも使えそうな、ゆったりとしたデザインが特徴的。このゆったりとしたデザインはコルセットという女性ファッションのハードルを大きく下げ、誰にでも似合う服を考案した。これにより痩せた方でも太っている方でも体系を気にせず服を着ることができたので、モード界に革命をもたらした。
ニコラ・ジェスキエール
クリストバル・バレンシアガの引退後、ブランドは一時期低迷たが、その危機を救ったのがニコラ・ジェスキエールである。彼が発表した1998春夏コレクションは、新生「バレンシアガ」に光明をもたらした。そんなニコラ・ジェスキエールはバックと靴のライン、メンズラインを発表し展開を広げた。
その後も数々の賞を受賞するジェスキエールの功績により、グッチグループがバレンシアガを買収する。
デムナ・ヴァザリア
2015年、デムナ・ヴァザリアが就任した。ヴァザリアの就任によって、「バレンシアガ」のイメージは一新される。これまでモード系が中心だったコレクションに、ストリート要素を取り入れたことで、「バレンシアガ」は一気にストリートブランドへと変貌を遂げた。
これにより、今までターゲット層から外れていた若い世代も、新しく顧客に取り入れることに成功した。
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